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高村山荘
高村光太郎が戦火を逃れ、知人であった宮沢賢治の生家を頼り東京から疎開して生活を送ったのが高村山荘です。山荘は現在套屋(とうおく)によって保護されています。高村記念館はこの山荘から約150m離れた木立の中に立ち、十和田湖にある「裸婦像」の原型、「大地麗」の書、妻智恵子の切り絵などが展示されています。
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光太郎の日記より
「今日は三月二十八日だが、山ではさかんに雪が降っている。一度ゆるんだ時候が逆戻りの形である、水田の赤蛙が今年はきっちり彼岸の入り日から啼きはじめたが、今日は黙っている。雪のなかで啄木鳥だけが元気である。解けかけた雪の水は堰をきたように道路を流れ、短靴をはいてくる訪問者は立ち往生の外あるまい。今年の様子をみると、雪と縁の切れるのはまず四月中旬であろう。雪が消えればサヤエン豆を播くのだが、それまでに痛みがとれてシャベルが持てるかしら。葱だけは雪中からも青い葉を出している。ニラとニンニクとはもう芽を出す頃だ。ニラの玉子とじが好きなので少々待ち遠しい。今年は雪の重みで井戸の上のさしかけ屋根が(かけさげと岩手ではいう)つぶれた首をちじめて水を汲み、顔を洗っている。」
《昭和二十二年(1947)六十四歳 肺結核が進み、喀血が続く毎日となる。》
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「しかし、わたくしがこの小屋にいることが分かると部落の人たちは心配して、よく雪をかきわけて様子を見に来てくれたし、米を一斗持ってきたり、大根を持ってきたり、ジャガイモを持ってきたり、又つけものを色々そろえて子供に持たせてこようとした。
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「これさ、先生(しぇんしぇ)に与(け)る」と子供が早口にいうのがはじめにはどうしても聞き取れなかったものである。・・・この部落を山口部落というが、その名の通り、田畑が尽きて、いよいよこれから先は山になるという山の入口のようなところであり、北に小高い山口山という木の沢山茂った山があり、西には奥羽山脈に連なる山また山が重なり、東と南の方は遠くひらけて、川が流れ、その原を清水野、後藤野といって、はるかに隣の郡までつながっていて、五年前には一面のススキとツツジの野原であった。・・・」
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